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・ようこそ 「やちむん なかどまり工房」 のホームページへ

 

 

 

このサイトは沖縄の焼き物の伝統を大切に、主に日常使いの食器類を手造りで生産している小さな工房のホームページです。 どうぞよろしくお願い致します。

 


【 チューカー(土瓶)と湯呑のセット  作:登川 均 】

 

【 箸置き各種  作:登川 均 】

 

 【 ティーポットとカップ&ソーサおよびシュガーポットのセット  作:登川 均 】

 

 

 

ブログ 「クロのやちむん日誌」 では焼き物の話題のみならず、沖縄の風景、行事、文化などいろんな情報を発信してたくさんの方に訪問していただけるよう更新していきますので、ぜひ一度ご覧になってくださいね。




・民藝との出会い

 北窯 で修行して程なく 柳宗悦 なる故人の存在を知る。

*
 「島々に運ばれる焼物は日々著しい数に上るであろう。磁器ならまだしも、何故陶器をまで他県のものを迎えるのであろう。
 壺屋がどんなによい窯場であるかを振り向かないのは不思議である。

 (中略)

 而もその美しさは只腕の冴えや、たくらむ趣好から来るのではない。背後の暮らしや心の持ち方、村の気風や、伝わる習慣や、持物や言語や更に建物や、凡てのものが綜合されて湧き出るのである。
 決して一人の芸術家の天分に俟つ品物ばかりではない。もっと社会的な本能的な力から盛り上がって来るのである。壺屋ばかりには今も活々とこの力が働いている。」          
                             (柳宗悦著「沖縄人に訴ふるの書」より抜粋)


 それまで沖縄で生まれ育って40年、沖縄の焼き物どころか文化、歴史にも関心の薄かった自分にとって民藝との出会いは心を揺さぶられる大きな出来事でした。
 それからの私は柳の褒め称えた琉球の”やちむん(焼き物)”を力不足ながらに再現そして更なる発展・継承をしていけたら、と今日も轆轤(ろくろ)に向かいます。



・沖縄の焼き物の歴史と特徴、そして現在

 
 
長い土器時代が続いた後、16世紀末頃には沖縄本島では窯を使った陶器生産がはじまります。
 そうして各地にあった湧田、宝口、知花焼きの3つの窯場が統合され壺屋が成立したのが1682年の事です。
 
 ちなみに1609年島津家の琉球出兵で薩摩に連行されていた佐敷王子(後の尚豊王)が帰国した際、連れ帰った朝鮮人陶工3人が湧田で技術指導をしていたそうです。

 統合された壺屋では釉薬を掛けて焼く施釉陶器=上焼き(ジョウヤチ)と、無釉の焼締め陶器=荒焼き(アラヤチ)の2種類が生産されました。
 
 ジョーヤチは本島北部の土で、おもにマカイ(碗)・皿・鉢などの日常雑器や酒器・花器などが連房式登り窯を使って焼かれました。またアラヤチは本島南部の土で、甕・壺・鉢などが穴窯を使って焼かれました。

 1872年の琉球処分後は沖縄も日本に組み込まれ、安価な砥部・瀬戸などの磁器の進出によって壺屋も大打撃を受けます。
 その後昭和の時代に入り、柳宗悦や濱田庄司らの民藝運動家が壺屋の陶器を高く評価、日本全国に紹介しています。

 300年以上ある歴史の壺屋焼の特徴としては、貯蔵用の甕・壺から普段使いの碗・皿は云うに及ばず酒器・祭器・キセル・茶器・骨壷(厨子)など広範囲の陶器を生産。
 また飛び鉋・線彫り・イッチン・刷毛目など多種多様の技法を駆使しているのも特徴のひとつでしょう。素焼をせずに加飾して焼成する生掛け技法によって生まれた色合いや雰囲気も壺屋焼の魅力を増す要因でもあります。

 現在残念ながら那覇市街にある壺屋では環境問題等で薪窯が焚けなくなり、薪窯を希望する陶工たちは生産の場を読谷村や本島北部(やんばる)に移しておりますがそのその技法は確実に継承され新たな魅力を生み出す焼き物も多数生産されています。
                      (参考文献:「沖縄と濱田庄司展」 編集:横堀 聡)



・「やちむん なかどまり工房」 登川 均(のぼりかわ ひとし) のプロフィール

 1959年 沖縄県美里村(現沖縄市)に生まれる。
 1984年 琉球大学工学部電気科卒業。同年県内某建設関連企業に入社。
 1997年 14年間勤めた会社を辞す。
 1999年 読谷山焼 北窯 松田米司工房にて陶芸の道に進む。
 2009年 恩納村仲泊にて独立、現在に至る。